arun seed

ソーシャルビジネスは社会からの防衛運動として捉えることができるのか

事業レポート

ソーシャルビジネスは社会からの防衛運動として捉えることができるのか

  • シェアする

  • ポストする

  • LINEで送る

今回は「ソーシャルビジネス」という経済活動を、「社会からの防衛運動」として捉えることができるのか、といったことについて考えてみようと思います。

皆さまは、カール・ポランニー(英:Karl Polanyi)という経済人類学者をご存知でしょうか。
1886年にウィーンで生まれた彼は、経済史の研究者として活動し、やがて1944年に有名な『大転換』という本を著します。
ポランニーは、この著作の中で、行き過ぎた市場経済が社会と接触すれば、「いかなる社会も、その中における人間と自然という実在あるいはその企業組織が、市場システムという悪魔のひき臼の破壊から守られていなければ、むき出しの擬制によって成立するこのシステムの影響に一瞬たりとも耐えることができないだろう」と指摘しています。
これは、「市場システム」という純粋に合理性だけを追求するシステムにおいては、自然や人間相互の紐帯といったものは、非効率であるとされ、彼の言葉を借りれば「悪魔のひき臼」によってバラバラになってしまうということを示しています。

こうした市場から社会に向かう矢印がある一方で、もう一方の矢印、即ち社会から市場へ向かう矢印もありました。
ポランニーは、その双方向の矢印のことを「二重の運動」と表現し、「近代社会のダイナミクスは二重の運動によって支配された。すなわち、一つは絶えざる市場の拡張であり、もう一つはその市場の拡張が遭遇した運動、すなわち市場の拡張がある一定の方向へ向かうのを阻止しようとする対抗運動であった。このような対抗運動は、社会の防衛にとって決定的に重要であったが、結局のところそれは市場の自己調整機能と両立せず、したがって市場システムそれ自体とも両立しなかったのである。」としました。

さて、この引用文中で、「社会の防衛」という用語が登場しました。
彼はこの後、「社会の防衛」の目標について、「あらゆる社会防衛の目標は、このような市場の仕組みを破壊し、それが存在できなくなるようにすることであった。そして実際には、賃金や労働条件、規範や法律が、商品であるとされた労働の人間的な性格を確保するものであるという場合に限って、労働市場はその主たる機能を維持することが認められた」ものであると、非常に強い表現をしています。
同時に、ここで述べられている「社会の防衛」とは、「市場の自己調整機能と両立せず、したがって市場システムそれ自体とも両立しな」いものであるともしています。

先日の、「ARUNスタッフブログ② ある”社会起業家”のお話」では、社会起業家とは「社会や地域の課題に新しい発想で取り組み、ビジネス的手法でその解決にあたる人達」であるとしています。
定義としては、色々な見解がありますが、ひとまずこの理解を容れて頂くとすれば、ここで重要なのは、「社会や地域の課題」に「ビジネス的手法」でもって解決にあたる、つまり社会課題の解決を前提としつつ、市場性・経済性という要素を同時に実践していくという点です。

では、「市場」と「社会」を峻別して議論するポランニーの考え方では、「ソーシャルビジネス」は「社会からの防衛運動」ではないのでしょうか。

私自身の考えでは、ポランニーの言う「二重の運動」という現象は今もってなお有効な構図であることを認めつつ、ポランニーが想定していた「二重の運動」から外れた部分があるのではないかと考えています。

どちらか一方が、どちらかを従属させてしまうようなパワーバランスになっていたとしても、必然その関係性の外部に存在する部分があり、どちらかが完全になくなるということはありえません。そうでなければ、「二重の運動」という用語そのものが形容矛盾となってしまいます。
従って、「絶えざる市場の拡張」と「阻止しようとする対抗運動」はそれぞれの領分を持っており、その埒外に存在する、あるいは重なり合う部分があることになります。
私は、この重なり合う部分にこそ「ソーシャルビジネス」の持つ役割があるのではないかと考えています。

社会課題の解決が前提としてあり、そこにビジネスとしての両立を志向していくという活動は、ポランニーが想定していた形の「社会の防衛」ではないかもしれませんが、現代的な「社会からの防衛運動」としては捉えることができるのではないかと思います。

(引用はすべて、カール・ポラニー(著),野口建彦(翻訳),栖原学(翻訳)『[新訳]大転換』(東洋経済新報社,2009年)より行いました)

  • シェアする

  • ポストする

  • LINEで送る

最新情報一覧